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紅茶の歴史

紅茶の歴史は古代中国の伝説から。

紅茶や緑茶、ウーロン茶は、すべて同じ「カメリア・シネンシス」と呼ばれるツバキ科の常緑樹が原料です。原産地は中国の雲南省チベット山脈高地、または東南部の山岳地帯に自生していたとされています。

では、そもそもお茶が一番初めに飲まれたのはいつ頃なのでしょうか?
古代中国の伝説では、医術と農業を司る神・神農皇帝が毒消しとして飲み始めたのが最初で、そこから中国全土に喫茶の習慣が普及したと伝えられています。
その後、茶は日本をはじめ、アジア各地へと広まりますが、紅茶の歴史の幕開けは大航海時代を経た西欧諸国が中国産の緑茶や紅茶を輸入し始めた17世紀からとなります。

「日本人と紅茶の出会い」

日本で一番最初に紅茶を飲んだのは、誰か?
大黒屋光太夫という人であると言われています。 今から300年ほど前のこと。回船の船頭だった光太夫は、遠州灘で遭難し、アリューシャン列島にたどり着きました。 そこからシベリアを横断し、当時のロシアの首都ペテルブルクまで行き、皇帝エカテリーナの茶会に呼ばれました。そこで紅茶を飲んだのが、日本人として初めて紅茶を飲んだ記録と言われています。

「和紅茶のはじまり」

明治維新政府の重鎮・大久保利通と岩倉具視が欧米に使節団として出かけた折に、アメリカ以外のヨーロッパ諸国では緑茶ではなく紅茶が飲まれているのを見て、輸出用の紅茶を作る事業を起こそうとしました。最初は中国からお茶師を呼んで指導を受けて紅茶をつくりましたが、あまりよい出来ではありませんでした。
そこで、元・徳川の幕臣で、静岡で茶の仕事に携わっていた多田元吉という人に、当時アッサム種の茶樹が見つかり、新しい製造技術ができていたインドへの視察を命じ、彼はアッサム紅茶の製造法、機械、設備、茶園システムを調査するとともに、お茶の種を持ち帰りました。この時持ち帰った多田種と言われる種の中から選抜して育成された品種に「べにほまれ」があります。

「和紅茶の終焉」

和紅茶づくりは、国策として華々しく始められましたが、明治の一時期、昭和初期の世界不況の時代期、そして戦後、茶が世の中に不足していた時代に、一時的に盛り上がりを見せたものの、品質があまり良くなかったこと、値段が高かったことから、輸出の道が閉ざされました。
そして、昭和46年に紅茶を含むいくつかの品目の輸入自由化により、完全に和紅茶の産業化に終止符が打たれました。

「和紅茶の現在とこれから」

輸入自由化によって終止符がうたれた和紅茶ですが、近年、また和紅茶をつくろうという動きが活発になってきています。
これまでと違い、国内消費を主としており、現在では300以上の生産者が各地で個性豊かな紅茶をつくっています。
その動きを受けて、テレビや雑誌なども和紅茶の特集を組むなど、静かに注目を集め始めています。
日本人の味覚に合った、日本生まれの紅茶は、これからますます発展していく可能性を秘めているのではないでしょうか。

「紅茶の歴史の幕開け」

中国のお茶を初めてヨーロッパに持ち込んだのはオランダの東インド会社。当時のオランダやポルトガルの宮廷でお茶は人気を博し、喫茶の風習が広まりました。
オランダを介してイギリスへお茶が入ってきたのは、17世紀中頃。上流階級の男性たちの社交場であるコーヒーハウスで紹介され、「万能に効く薬」としてお茶ブームを巻き起こしました。当時飲まれていたのは、緑茶でした。
イギリスが直接中国から茶を輸入し始めたのはオランダとの戦争に勝利した後の1689年のこと。イギリス東インド会社が基地を置く福建省アモイに茶が集められ、それがイギリス国内に流通するようになりました。この時集められたのが紅茶に似た半発酵茶「武夷茶」だったことから、イギリスにおいて緑茶よりも紅茶が飲まれるようになり、西欧における茶の主流になりました。

「アッサム種の発見」

19世紀に入ってから、イギリスの冒険家ブルースがインドのアッサム地方でアッサム種の茶樹を発見したことから、紅茶の歴史の第二幕が始まります。
当時は中国でしか茶樹は育たないと信じられていたことから、専門家たちは最初これを茶樹と認めませんでしたが、後にそれが中国種とは別種の茶樹であることが確認されたのです。
アッサム種は中国種より高温多湿の土地によく育ち、茶葉も大きいため、発酵茶である紅茶に向いていました。こうして、イギリスは中国からの輸入に頼ることなく、当時イギリスの植民地であったインドで茶葉を生産できるようになりました。
この発見によって中国種とアッサム種の交配が進み、インドやスリランカの各地で茶の栽培が始められたのです。